2006.02.10
映画レビュー|有頂天ホテル 邪道って何だ?
先日の話。
今話題…かどうかは知らんが、面白いと前評判の「有頂天ホテル」を見た。
2005年/日本/2時間16分 配給:東宝
キャスティングから明らかなごとく、いわゆる典型的な三谷ワールドが
銀幕の中で展開されていた。
彼の作品のベースは明らかに舞台であり、ライブ感がある。
今回の映画も同じフレーム内で同時進行のミニストーリーが複数展開する
サイマルな構成になっていた。
でも何かしらの違和感があり、映画が終わった後も、僕はいったい何を見たのか?
映画を見終わったときとは異なる、何か釈然としないものが残ったのでした。
それが何か最初はよくわからず、しばし考えてみました。
ということもあり、作品の内容をもう一度思い出すと、画面の構成が非常に特徴的でした。
一言で表すなら「ストローク」での撮影ばかり。つまり「カット」がない。
ひとつのカメラがずーっと回り、その「舞台」内で複数のシーンが展開される。
「カット」が無いということは、「カット割り」が無いということ。
僕個人の考えでは、この表現方法って映画という文化においては「邪道」だと思うわけです。
実際に「有頂天ホテル」の中には、「普通ここでカットを割るだろ!?」という突っ込みどころが
満載で、繰り返し続くカメラのパーンに、ちょっと見づらさを感じることもありました。
そもそも論ですが。。。。
映画のカット割りとは、数々の奇才たちが表現方法を重ねに重ね、より興味深いものが
生まれてきたわけです。迫力や表情などの表現です。
通常、言われてもなかなか気づかないことですが、例として北野武の座頭市の予告編が
まだアップされたので、見てもらうとわかるかな。
人を斬るシーンだけで、その緊張感を表すためにいったい何カットの撮影が行われているか?
そのカット割りの妙こそが映画のあり方の根本だと思うのです。。。というか思っていたのです。
とはいえ。
今回の映画は大変面白かった。内容が。
もともと彼の作るシットコムを見ても、
その奇才ぶりは常識では考えられないレベルだと思うわけです。
そのディレクションをきちんと受け入れて表現する三谷作品の俳優陣との
息の合い方は絶妙だと思うし…。
つまり映画の手法では「邪道」でも、それが受け入れられれば、「新しい手法」になる。
そういうものかもしれません。
北野武も未だに邪道という人がいる。
立川談志も林家三平も振り返れば邪道。
実はここだけの話ですが、
テレビの生中継も、最も難しいのはワンカメ中継。
カメラ台数が複数ある方が、めっちゃ楽なんです。
ワンカメだと演出を1つでも間違えると、すべてが終わるという演出側のスキルを
非常に求められるからなのです。だって逃げられないでしょ。
ということは、ストロークでの撮影にこだわった三谷幸喜って、演出の天才なんだね。
そういうことを見せ付けられた気がした。